早くも明朝に、東南沿海で活動する倭寇を防ぐために、中國は釣魚島を防衛(wèi)區(qū)域に組み入れていた。1561年(明?嘉靖40年)に、明朝の東南沿海駐屯軍最高司令官胡宗憲が監(jiān)修し、鄭若曽が編纂した『籌海図編』には、釣魚島などの島嶼が「沿海山沙図」に明確に表示され、明朝の海防範(fàn)囲に組み入れられている。1605年(明?萬暦33年)徐必達らが作成した『乾坤一統(tǒng)海防全図』と1621年(明?天啓元年)茅元儀が作成した中國海防図『武備誌?海防二?福建沿海山沙図』も、釣魚島などの島嶼が中國の國境內(nèi)に組み入れている。
清朝は明朝のやり方を踏襲し、引き続き釣魚島などの島嶼を中國の海防範(fàn)囲に組み入れたのみならず、それらの島嶼を臺灣地方政府の行政管轄下に明確に編入した。清朝の『臺灣府誌』及び黃叔璥が編集した『臺海使槎録』などの政府の文獻には、釣魚島に対する管轄狀況を詳細に記載している。1871年(清?同治10年)に刊行された陳壽祺らが編纂した『重纂福建通誌』巻八十六には、釣魚島を海防の要衝とし、臺灣府クバラン庁(現(xiàn)?臺灣省宜蘭県)の管轄下に置いたと記されている。1872年、周懋琦が編纂した『全臺図説』も釣魚島に関する記載を殘している。